雨が降り続いている。
 崩れかけた建物の中には、二人の男女がいた。一人は小柄な青年で、ブロンドに近い茶色の髪に、深い紫色の瞳だ。機嫌が悪いのか、整った形の眉を、ぎゅっと眉間に寄せている。青年から少し離れた所には、少女が立っている。淡い水色の瞳に、癖のない細い金色の髪。腰には細身の剣を帯びている。
 青年、エルドが大きく舌打ちをした。少女、アリーシャがびくっと肩を震わせて、エルドを見た。エルドはかなり苛立っていた。止まない雨と、不快な湿気で服が身体に張り付き、気持ちが悪い。
「あ…あの…」
 恐る恐るアリーシャがエルドに話しかけた。氷のように冷たい、紫の視線がアリーシャを貫く。あまりの恐ろしさに、アリーシャの目が潤んだ。
「私のせいで皆とはぐれてしまって…ごめんなさい…」
 胸の前で両手を組み、消え入りそうな声で、アリーシャが呟いた。組んだ両手が震えている。
「ああ、そうだな。貴様がドジを踏んだせいで、こんな事になっちまったんだよな」
 エルドの声は怒気を含んでいた。唇を噛み締め、アリーシャは俯いた。
 アリーシャ達は、ドラゴンオーブを探し、ここクローサス森林遺跡を探索していた。だが、アリーシャが沼にはまり、たまたま近くにいたエルドが彼女を引き上げている所に、魔物が襲いかかって来た。そして、アリーシャとエルドは、他の仲間とはぐれてしまったのだ。
「本当に…ごめんなさいっ……」
 すすり泣く声が聞こえてきた。エルドが振り向くと、アリーシャは泣いていた。エルドは戸惑い、溜息をついた。目の前で人に泣かれるとどうしたらいいのかわからない。
(だから女は嫌なんだ…)
 エルドはアリーシャの右膝に血が滲んでいるのに気がついた。逃げる時に、何処かで擦ったのだろうか。エルドはアリーシャに近づいた。
「おい」
 声をかけると、アリーシャはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、完全に怯えきっている。
「座れ」
「え…?」
「いいから座れって言ってんだよ」
 アリーシャは、震えながら地面に座り込んだ。エルドも、彼女の側に片膝を立てて座った。腰の矢筒に結んである青い布を破り、アリーシャの右膝に巻いた。かすかに血が滲み、その部分が濃い赤紫に染まった。
「あ…あの…」
「うるさい、黙れ」
 アリーシャは黙り込んだ。エルドは黙々と手当てを続けた。布を何重かに巻き、脚の血管の流れを妨げないように気をつけながら、きつめに結んだ。
「ほら、…これで大丈夫だろ」
「ありがとうございます…」
 アリーシャが礼を言った。笑顔を浮かべ、エルドを見る。エルドは照れたのか、顔を背けた。


「雨、止みませんね」
「そうだな」
「皆さん…心配してるでしょうか…」
「さあな。アイツ等がオレ達を見つけるのが先か、オレ達がのたれ死ぬのが先か…」
 降り続く雨のせいで、気温が下がってきた。身体が冷えたのか、アリーシャがくしゃみをした。エルドは手を伸ばし、アリーシャの冷えきった手を握った。アリーシャが驚いた顔で、エルドを見た。
「少しはましだろ…」
「はい」
「早く温まれ。人と手を繋ぐのは嫌いだ」
「どうしてですか…?」
「オレの手は汚れているからさ」
「汚れてる…?」
「ああ、そうさ。オレは人を殺して生きてきた。今まで何人殺したか覚えていない。この手は汚れきっている。血の赤い色は洗い落とせても血の匂いは染みついて、オレの手からは消えない…」
 吐き捨てるように、エルドは言った。薄い唇に、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「いずれオレは、地獄に堕ちるだろうな…。ククッ…オレには地獄がお似合いだ」
 エルドの握る手に、力が込められた。その手は、優しく彼の手を握り返した。
「そんなことありません。エルドさんの手は…温かいもの…血の匂いなんてしません」
「うるせぇ。箱入り娘のお嬢様に何がわかる」
 エルドは手を離そうとした。だが、アリーシャの手はエルドの手をしっかり握っていて、離れない。
「私を沼から助けてくれた時、エルドさんの手はとても温かかった、優しかった、大きかった」
 アリーシャが、身を寄せてきた。身体同士が触れ合い、互いの体温が伝わる。
「貴方が地獄に堕ちるなら…私も付いて行きます。ずっと、一緒にいたい…」
「…貴様といると、調子が狂うぜ…まったく」
 アリーシャの淡い水色の瞳がエルドをじっと見つめている。エルドはその視線から逃げるように顔を背け、立ち上がった。その時、彼の表情が変わった。
「エルドさん?」
「どうやら、招かれざる客のようだな。」
 重い足音が響く。トロルの一種である、ワイルドトロルが姿を現した。二人の方にゆっくりと、確実に近づいて来る。エルドは折り畳み式の弓を展開させ、構えた。アリーシャも剣を構え、エルドの隣に立つ。
「…戦う気か?下がってろ。貴様はお荷物だ」
 言葉は悪いが、エルドの声にはアリーシャを心配する響きがあった。
「私だって、戦えます」
 

 エルドは、弓を引き絞り、矢を二本放った。一本の矢はトロルの丸太のような腕に突き刺さり、もう一本の矢は、トロルの肉を抉った。
「はああぁっ!!」
 気合いと共に、アリーシャの剣が一閃した。巨大な棍棒を握るトロルの腕が離れ、湿った音を立てて、地面に落ちた。
「やった!」
 アリーシャが声を上げた。だが、次の瞬間、断たれたはずのトロルの腕が再生した。トロルが腕を振り上げ、アリーシャ目がけて振り下ろした。
「!!」
「アリーシャ!!」
 エルドは弓を投げ捨て、アリーシャに駆け寄った。彼女を地面に押し倒し、庇うように覆いかぶさる。エルドは死を覚悟し、目を瞑った。その時、固い金属音が響いた。エルドが顔を上げると、軽鎧を身に纏った女性がトロルの棍棒を剣で受け止めていた。
 赤紫の髪が兜の隙間から見える。幅の広い剣を、女性の細腕で、軽々と使いこなしている。
「外しはしないっ!!」
 光のような速さで、セレスがトロルの脇を走り抜けた。トロルの身体は切り刻まれ、バラバラになって地面に落ちていく。だが、すぐにトロルの肉片は再生を始める。
「そうはさせないぜ!」
 エルドの前に白い影が躍り出た。目を閉じ、呪文を紡いでいく。
『真紅に輝く紅蓮の奔流よ。彼の者を包み、業火の戒めを!』
 炎の嵐が、トロルを包み込み、跡形もなく焼き尽くした。焼け焦げた臭いが辺りに漂った。


「悪い、遅くなった」
 白い服を着た青年、ファーラントが振り返った。快活な笑みを浮かべ、二人を見下ろす。
「いつまで抱き合ってるんだ?うらやましいな」
 ファーラントの言葉で、エルドは冷静さを取り戻した。エルドはアリーシャの上に馬乗りになり、押し倒す格好になっている。アリーシャのスカートはまくれ、彼女の白い太腿が露わになっていた。
「!!!!」
 顔を真っ赤にして、慌ててエルドはアリーシャから離れた。アリーシャも頬を赤くし、恥ずかしそうに顔を伏せる。
「無事でなによりだわ。随分捜したのよ」
「心配をおかけしてすみません…」
 セレスが手を貸し、アリーシャを立たせる。
「向こうに橋みたいな物があるんだ、行こう」
 ファーラントが先頭を歩いて行く。セレスが彼の後に続きアリーシャは、エルドと並んで歩く形になった。二人はしばらく無言で歩いた。
「足…痛くないか?」
 短くエルドが訊いた。さっきの出来事が恥ずかしいのか、アリーシャと顔を合わせようとしない。
「はい、もう大丈夫です」
「…そうか」
「あの、エルドさん」
「何だ?」
「この布、もらってもいいですか?」
「…何で」
「私の…お守りです」
 アリーシャは立ち止まり、そっと布に触れた。エルドも立ち止まる。
「…好きにしろ。貴様の趣味は悪すぎる」
「いいんです」
 エルドはアリーシャに近づき、手を伸ばした。幼さの残る顔を、自分の方に引き寄せる。
「本当に、貴様といると調子が狂う…」
 エルドは軽く、アリーシャの白い頬に口づけた。アリーシャは、驚き、瞬きした。前から二人を呼ぶ声が聞こえてくる。エルドはアリーシャから離れると、歩いて行った。
 アリーシャはしばらくその場に、呆然と立ち尽くしていた。そして、満面の笑みを浮かべると、仲間の所に走って行った。
 
 
 アリーシャは、頬を指でなぞった。
 エルドの柔らかい唇の感触がまだ残っている。
 しばらくは、忘れられそうにない。