|
|
|
|
「シスター。僕、神様が見えるんだ」
小柄な子供がシスターの黒い服を引っ張った。年齢の割には華奢な身体つきで、痩せ過ぎと言ってもいいだろう。脱色したように白い肌に、深いヴァイオレットの瞳。中性的な顔立ちだ。ステンドグラスが陽光を纏って七色に輝いた。差し込む光に包まれた子供の髪が、磨き抜かれた銅のような色に染まった。
シスターは優しく微笑むと、子供の頭に手を置いた。明るい銅のような色をしている子供の髪は触れると柔らかく、するりと指の間を滑らかに流れていく。彼女はその感触が好きだ。
「まあ、エルド。それはとても素晴らしい事だわ。神様はどんな方なの?」
「綺麗な女の人。梟の羽飾りがついた兜をかぶってるんだ」
「その方はオーディン様にお仕えする戦乙女様ね。エルド、貴方は神様に愛されてるのね」
エルドと呼ばれた子供は両目を細めて、シスターの背後にある祭壇を見つめていた。常人には見えない何かを見ているようだった。
「ほら、あそこに居るよ。僕をずっと見てるんだ」
細くて白い指がシスターの後ろ側を指差した。振り向くシスター。思っていた通り、そこには誰も居なかった。控え目な小さな祭壇と静かに揺らめく蝋燭達。聖者が磔にされた十字架が置かれているだけだ。この年頃の子供は空想遊びが好きだ。空想と現実の区別がつかないのだろう。
「残念だけど、私には見えないわ」
「ふーん……そうなんだ。大人って不便だね」
「そうね」思わぬ言葉にシスターは苦笑した。「さあ、午後の礼拝の時間よ。皆を呼びに行きましょう」
「うん」
シスターはエルドを連れて小さな礼拝堂を出た。
二人の姿が見えなくなると、祭壇で燃えていた蝋燭の火が消えた。
まるで、見えない誰かが、そっと息で吹き消したかのように。
エルドは両親の顔を知らない。
吐く息が瞬く間に白く染まり、魂の奥まで凍りつきそうな真冬の日に、教会の前で蹲っていた所を保護されたのだ。発見されるのが一秒でも遅れていたら、彼は死神に連れて行かれていただろう。寒さに凍えるエルドの身体は恐ろしいほど小さく、痛々しいほどに痩せ細っていた。
彼を見つけたシスターは、愛情を込めて優しく介抱した。教会の一室に運び込み、小さな身体を毛布でくるんだ。作りたての温かいスープを渡すと、エルドは美味しそうに飲んだ。名前、両親の事、どこから来たのか。シスターはエルドに色々と尋ねてみたが、初めのうちは何も答えなかった。見ず知らずのシスターを警戒しているのだろう。ゆっくりと、時間をかけて、彼の心が開かれるのを待った。青紫色から薔薇色に染まり始めた唇が動いた。
「――ド」
「え?」
「……僕はエルド」
「エルド、というの。いい名前ね。ご両親はどこに居るの?」
「解らない。迎えに来るよって言って、どこかに行っちゃったんだ」
やはりそうか。シスターが主を務めるこの教会は、親に捨てられた子供達が身を寄せる孤児院のような場所だ。子供達が捨てられた理由も様々だった。日々の糧に困った者。片親の収入だけでは育てられない者。成り行きで産んでしまった者。エルドの両親も、恐らく――。
全ては神の導き。エルドも教会で暮らす事になった。エルドは一人で居る事を好む子供だった。自分と同じ孤児の子供と遊ぶ事もあるが、いつも一定の距離を置いていた。彼は大抵一人で空を見上げていた。何をしているのかとシスターが訊くとエルドは神様が来るのを待っている、と答えた。そして、最後に必ずこう付け足す。天国に連れて行ってくれるのを待っていると。
「シスター。お父さんとお母さんは――いつ、僕を迎えに来るの?」
天国の門を見つけるのを諦めたのか、それとも飽きたのか、青空から視線を外したエルドがシスターに質問した。洗濯物をロープに吊るし終えたシスターはエルドの側に行った。無垢で純粋な二つの目が見上げて来る。彼女は少年の問いかけに答える事が出来なかった。答えられなかった。
教会の前で蹲るエルドを見つけた際、シスターは彼の傍らに落ちていた一通の手紙を拾っていた。ペーパーナイフで封蝋を解き、中身を取り出した。一枚の薄い羊皮紙には、短い文章が走っていた。
『この子を愛してあげて下さい』
その言葉が示す真実。
エルドの両親は、永遠に彼を迎えに来ない。
「必ず迎えに来て下さるわ。信じましょう。ね?」
震えそうになる声を必死に抑えてシスターは言葉を紡いだ。エルドは黙ってシスターを見上げていたが、彼女から視線を外し、長い睫毛に縁取られた瞳を伏せて呟いた。
「……大人は、皆、上手に嘘をつくんだね」
ベンチから立ち上がったエルドは教会の中に入って行った。シスターは何も言えなかった。彼は全てを知っていたのだろうか。あの手紙を読んでしまったのだろうか。いや、それはあり得ない。引き出しの奥深くにしまいこみ、鍵をかけておいた。滅多な事では読まれない筈だ。シスターは、去って行く華奢な背中を見つめた。遥か遠くから、エルドの心が再び閉じていく音が聞こえた。
暗い事務室。オレンジ色のランプの明かりだけが煌々と光っている。シスターは頭を抱えて悩んでいた。教会を維持するための資金が思うように集まらないのだ。このままでは教会は潰れてしまい、身寄りのない子供達は路頭に迷ってしまうだろう。シスターの目に封をしたままの手紙が入った。手紙の内容は知っていた。だが、恐ろしくて封を切るのを躊躇っていた。
ついに、シスターは手紙の封印を解き放った。乱れのない端正な筆跡。数週間前からこの町に滞在している、貴族の魔術師からだった。やはり、内容はシスターが危惧していた事だった。教会を維持する資金を出す代わりに、子供を一人買い取りたいと書いてあった。魔術師が欲している子供は、神を見る事が出来る少年。それは――エルドを指していた。シスターは子供達を、中でもエルドを実の息子のように育てて来た。彼を売ることなど出来やしない。
(ああ……私はどうしたらいいの? 子供達は私の宝物、死なせるわけにはいかない……。でも、この教会がなくなったら……)
その時だった。シスターの耳元で悪魔が囁いたのは――。
エルドヲウッテシマエ、マジュツシハカネモチダ。エルドハシアワセニナレル。
ナアニ、ダイジョウブサ。エルドハ、カミサマニアイサレタコダカラ…。
震える手に握られた羽ペンが羊皮紙の上を踊るように滑って行く。
シスターが望んでいない言葉の羅列が完成して行く。
ただ、
ぼんやりと、
シスターは心の奥に出来た、硝子の壁の向こう側からそれを眺めていた。
それから数週間後。手紙の返事を受け取った魔術師は、すぐにやって来た。豪華絢爛な馬車に乗った、老齢の男。噂によると、彼はラッセンという街を治めていた領主だったらしい。領主の地位を息子に譲り、悠々自適の老後を送っているようだ。
小さな鞄を提げたエルドは、魔術師と共に町を去って行った。エルドは何も言わなかった。磔にされようとしている聖者のように、静謐さに満ちていた。
机の上に積まれたオースの山が鈍い輝きを放っている。欲望で彩られた禍々しい輝きだと思った。その欲望を招いたのは、他でもない彼女自身だった。目の前にある欲望の塊で、教会と子供達は救われるだろう。
それなのに――。
肺腑の奥底から、魂の奥底から込み上げて来る苦い思いは何なのだろう。
不意に、エルドの顔が鮮明に蘇った。底知れない暗闇を湛えた眼が、シスターを見つめている。
繊細なエルドの声が、鼓膜の奥に反響した。
大人は皆、上手に嘘をつく。
もう抑えきれない。感情が爆発した。
シスターの口から嗚咽が零れた。床に蹲り、むせび泣いた。胸が張り裂けるぐらい苦しいのに、不思議な事に涙が出ない。後悔と自分が犯した罪の重さが、津波のように押し寄せてくる。
「ごめんなさい! ごめんなさい! エルド! 私は何という事を! 私は、救いを求めて伸ばした貴方の手を離してしまった……! あああああああああ!」
部屋中に響く慟哭。
どれだけ叫んでも、
泣いても、エルドは永遠に戻って来ない。
解っていた筈なのに、
解らなかった――。
魔術師に買われたエルドの生活は、凄惨なものだった。奴隷のようにこき使われ、過酷な労働の報酬はカチカチに固まった一個のパンと、コップ一杯の泥が沈んだ汚い水だけだった。逆らえば、容赦なく鞭で叩かれる。地獄に堕ちた方がマシだと思った。あの男より、悪魔の王の方がまだ優しいだろう。
お世辞にも部屋とは言えない場所がエルドの寝床だった。窮屈で足もろくに伸ばせず、夜は胎児のように丸まって眠った。劣悪な環境に身体は耐えられず痩せ細り、高熱が出る事も少なくなかった。何度死にかけただろうか。いっそ、このまま、死んでしまいたい。何回もそう思った。
魔術師は毎日のようにエルドに暴力を振るった。鞭で叩き、赤く焼けた鉄の棒を押し付けた。時には泣き叫ぶエルドを押さえつけて、その白い肌に鋭い剣の切っ先で傷をつけた。日々繰り返される暴力が、エルドの身体と心に消える事のない傷を刻んでいった。
(僕は飛べない鳥だ。翼をもがれて、出口のない鳥籠に押し込められてるんだ――)
薄汚い毛布にくるまって、エルドはぼんやりと思った。鉄格子のはまった窓に閉じ込められた三日月の光が牢獄を照らしている。人の気配を感じる。部屋の隅だ。首を捻って、暗闇が溜まっている部屋の隅に目を向けた。
「神様なんて居ないんだ。……そうなんでしょ?」
狭い部屋の隅にあの女性がいた。儚い輪郭の、白く整った顔立ち。梟の羽飾りがついた兜。緩く波打った長い金色の髪。淡い翡翠色の瞳は静かにエルドを見つめている。
「……神様なんて、大嫌いだ」
永遠に続くかと思っていた地獄の日々は、唐突に終わりを迎えた。
書斎に広がる血溜まりの中にエルドは立っていた。全身に返り血を浴びて、震える右手には漆黒の弓が握られていた。物置きで見つけたその弓で、エルドは魔術師の喉を貫いたのだ。
初めてヒトを殺した。
僕は悪くない!
死にたくなかった!
ただ、それだけなんだ!
何処をどう走り、どう逃げたのかは覚えていなかった。気がつけば、薄暗い路地に血だらけの格好で座り込んでいた。むせかえる血の匂いに怯え、エルドは泣き叫んだ。
ある日、無気力に貧民街で暮らしていたエルドに、一人の男が話しかけて来た。男は盗賊ギルドの人間で、お前を育ててやると言って来たのを覚えている。盗賊ギルドの事は知っていた。暗殺。スパイ。裏の仕事をする所だと。
エルドはギルドの一員となる事を選んだ。望んだ。もう、太陽の下で暮らしていけるとは思っていなかったから。子供から大人へ。光から切り離された暗闇の中で成長したエルドは、仲間が指を銜えて嫉妬するほどの腕を持つ暗殺者になった。魔術師を殺す事が多かった所為だろう。いつしか、魔術師の間で「魔術師を狩る者」と呼ばれ、恐れられるようになった。
成長期に十分な栄養を摂らなかった影響なのか、それとも、遺伝的なものなのか、十代後半になっても身長はあまり伸びなかった。身体も重くならなかった。身体つきも華奢で、少女のように脆く、端正な顔立ちも手伝って、エルドはよく女性と間違えられた。その方がいい時もある。殺す相手を油断させられるから。
漆黒の闇に木霊する悲鳴。足下に転がるのは、目を見開いた男の死体。勿論、男の職業は魔術師だ。これで何人目だろう。数えるのも面倒だった。
エルドは自分の手を見つめた。細い。力を込めれば、簡単に折れそうなくらい。白い指には何の汚れもない。でも、血の匂いを感じた。いくら洗っても落ちない匂い。悪魔が喜ぶ匂いだ。
「……オレは、堕ちる所まで堕ちるんだ」
ならば、堕ちて行こう。
光すらも届かない、闇の底へ。
その先に待っているのは、
地獄。
エルドさん。
柔らかい、ソプラノの声が呼んでいる。声が降って来る。太陽の光と手を繋いで。暗闇にさよならを告げて、エルドは閉じていた瞼を開けた。横にしていた身体を起こす。太陽の光に縁取られた少女が見下ろしている。
飴細工のような、繊細で金色の長い髪。空の色を閉じ込めた瞳。戦乙女の魂を内側に宿した少女――アリーシャだ。思い出した。エルドは、神に仕える戦士、エインフェリアに選ばれたのだった。この少女を見ると、胸の奥が気持ち悪くなる。その理由は、今も解っていない。
「……何の用だ? 用がないなら、さっさと消えろ。目障りだ」
「えっと……その……」
困ったようにアリーシャは口ごもった。どうやら、これといった用事はないようだ。泳いでいた水色の視線が、エルドの腕の上で止まった。
「怪我……してますよ。大丈夫ですか?」
「あ?」
何を言っているんだと思いつつ、エルドは彼女の視線を追いかけた。見ると、灰色の袖が捲れ、我ながら情けなくなるぐらいの青白い肌に、蚯蚓腫れのような赤い痣が浮かんでいた。チッと舌打ちをして、捲れていた服を元に戻した。
「……かすり傷だ。すぐに治る。犬みたいに喚くんじゃねぇよ。クソが」
「……ごめんなさい。私、回復魔法使えますから、痛くなったら言って下さいね」
ぺこりと頭を下げると、アリーシャはウサギのように小走りに駆けて行った。横目で彼女を追いかけた。焦げ茶色の鎧を纏った、金髪の青年の所に向かっているようだ。あの男は、生前騎士団の団長を務めていたと聞いた。恐らく、剣の練習でもするのだろう。ご苦労な事だ。
「何で断ったんだ? 俺なら、喜んで手当てしてもらうけどな」
張りのある、耳に心地良い低音の声が響いた。発生源は後ろ。寝転んでいたエルドを包み込んでいた樹の反対側。声の主が立ち上がった。ゆっくりと、こっち側に回り込んで来た。白い服を身に纏った長身の青年。柔らかく波打つ茶色の髪。萌える緑色の目が眩しかった。彼の名前はファーラント。生前、エルドとファーラントは敵同士だった。何の因果か、二人は同じエインフェリアに選ばれたのだ。
「……チッ。いつから、そこに居やがった?」
「お前が寝た後かな。お前の顔に、落書きしてやろうと思ったけど、後が怖いから止めたよ」
屈託のない笑顔を浮かべたファーラントが楽しそうに笑った。
「何でアリーシャ王女に優しく出来ないんだ? 彼女、お前の事――」
「黙れ。それ以上無駄口叩いたら、殺すぞ」
「まったく、素直じゃないなぁ。そろそろ出発の時間だ。先に行ってるよ」
エルドの肩を叩くと、ファーラントは丘の下に居るアリーシャ達の所に歩いて行った。
溜息を一つ地面に落として、エルドは上を見上げた。
子供の頃と同じように。
数秒、天国の門を探してみた。
頭上には、青く、澄み渡った空が地平線まで広がっている。
見つめていると泣きたくなるような、青空だった。
|
BACK
|
|
|
|
|