ミッドガルドの大陸東部に存在するパルティア公国。
 大陸歴423年にソロンは生まれた。
 幼い頃からソロンの頭脳は抜きん出ていた。
 両親は学者で家の中の半分は古文書の詰まった本棚で占領されていた。ある日ソロンは、両親が一週間かけても半分しか解読できない古文書をたった一日で解読してしまったのだ。両親はソロンを褒めてくれたが、ソロンを見る二人の目は化け物を見ているような、そんな目をしていた。  
 思えばそれからだったような気がする。両親がソロンを避け始めたのは。最低限の会話はするが、一緒に街を歩いたり、遊んだり、そんなごく普通の親子関係は築かれることはなかった。
 十五歳になったソロンは家を出た。何の未練もないと思っていたが、荷物をまとめている時一筋の涙が頬を伝ったのに気づき、驚いた。


 何人かの魔術師を訪ね、師事はしてみたものの気が狂うほど退屈だった。
 師匠が出す課題をソロンは簡単に解き、問題の疑問や間違いを指摘した。さらに師匠にすら解けない魔術の論理を目の前で解いて見せた。師匠の顔は嫉妬と屈辱の色に染まっていた。
「何ですか?師匠」
 ある日ソロンは呼び出された。何枚かに束ねられた書類を渡される。紙にはパルティア公国の首都にある魔術研究所で働く魔術師を募集する、という内容が書かれていた。
「研究所に話はしてある。お前の住む家も既に用意してある」
 短く師匠が言った。ソロンは書類を半分に折るとローブのポケットにしまった。
「厄介払い…というわけですか。別に構いませんよ。僕もここでの日々は息が詰まるほど退屈でしたから」
 淡々とソロンは言った。ドアを閉め、部屋を出る。
 翌日ソロンは馬車に乗りパルティアの首都に向かった。頬杖をつき、ぼんやりと窓の外の景色を眺める。住み慣れた街が遠く離れていく。
 悲しくはなかった。
 孤独を感じたことはなかった。
 でも、胸が詰まり苦しくなった。
 この感情の名を自分は知らない。


 弱冠十六歳で研究所に入ったソロンの名はすぐに広まった。
 研究所で過ごす日々はそれなりに充実していたものの、やはり退屈だった。自分に媚びを売ったり、取り入ろうと近寄って来る同僚が疎ましかった。いつしかソロンは一人で過ごすようになっていた。
「…今日はいい天気だな。たまには街に出るか…」
 床に散らばった本や書類を踏まないように気をつけながら、ソロンは部屋のドアを開けた。研究所に来てから二年が経っていた。
 久しぶりに吸う外の空気は気持ち良かった。ソロンはベンチに座り、分厚い魔術書を開いた。
「なあ、ちょっと尋ねていいか?」
 急に声をかけられたソロンは驚いた。横を見るといつの間にかそこには青年が座っていた。赤みがかった金髪に、青灰色の瞳。どこかの貴族が着ていそうな服を身に着けている。
「あんた、緋色の賢者って知ってるか?ほら、最近研究所で有名な奴だよ」
「緋色の賢者…?」
 青年が言っているのは自分のことだろう。研究所の魔術師達が尊敬と畏怖の念をこめてソロンをこう呼んでいるのを聞いたことが多々あった。
「聞いたことはあるけど。その緋色の賢者様に用でもあるの?悩み事でも相談するとか?」
 ソロンの言葉に青年は首を横に振った。
「俺は宮廷魔術師になってくれと頼みに来たんだ」
「宮廷魔術師…?僕に…?」
 うっかりソロンは口を滑らせてしまった。隣を見ると、ソロンを見る青年の目はきらきらと輝いていた。
「あんたが緋色の賢者か!?うっそ!!…そういえばそうだな…赤茶色の寝癖だらけの髪に…真紅の目…。うわー想像してたのと全然違うわ」
「…寝癖だらけは余計だし…アンタ、どんな人物を想像してたのさ…」
「皺だらけの爺さん。まさか子供だったとはなー」
「僕は子供じゃない。もう十八だ」
「あ、俺はヴェルト。パルティア公国の国王だ。よろしくな」
「はい?今何て……」
 ガチャガチャと鎧の音がした。いつの間にかソロンの周りを何十人もの兵士が取り囲んでいた。ソロンは連行されるように城に連れていかれた。
 

 ソロンはあっさりと宮廷魔術師になることを承諾した。
 国王ヴェルトの頼みは不死者に対抗する術を開発してほしいということだった。書庫に案内されたソロンは息を呑んだ。見たこともない魔術書や、古文書が所狭しと並べられている。
「陛下からの伝言です。書庫は自由に使ってもいいとのこと。あと無理はするなと仰っていました。貴方様のお部屋は書庫の隣にあります。では、失礼します」
 ソロンに鍵を渡すと、兵士は扉を閉め出て行った。ソロンは無造作に本を取るとページに目を通した。
「凄い…!僕の知らないことがこんなにあるなんて…!」
 貪るようにソロンは本を読み続けた。ろくに食事も摂らず、文字を解読したり、複雑な魔方陣を作り出す、そんな日々が続いた。今まで味わったことのない充実感をソロンは感じていた。
 ヴェルトも暇を見つけては、ソロンの所に来た。研究を手伝ったり、ソロンの邪魔をしたりもした。ある時は三日かけて解読した文字を書いた紙の上に紅茶をこぼされたりもした。
 居心地が良かった。
 ソロンはやっと、自分の居場所を見つけたような気がした。


 三年の月日を費やしソロンは魔法を開発した。意気揚々とソロンはヴェルトの待つ王の間に向かった。
「ついに完成したのか!ありがとう、ソロン!!」
「この指南書を嫌になるまで読んでおいてくれ。詠唱の綴りと声の抑揚の仕方、印を結ぶ順番を書いておいたから」
 分厚い本を受け取ったヴェルトは顔を顰めた。
「ほほう…炎の術バーンストームと…防御の術ガードレインフォースか…。うわっ、何だこれ。魔法を使うためにはこんな多くの手順を踏まなければいけないのか…」
「当然だ。魔法を使うには、大気に漂う世界樹の魔力と同調しなければならない。それには強靭な集中力と魔力が必要になるんだ。一歩間違えれば魔法は暴発し、命を落とすことになる…」
「あー!!わかったわかった!!気をつけます!徹底的に指導します!!」
 放っておくと延々とソロンの話は続いていただろう。不満そうな表情でソロンは言葉を止めた。
「…これで、僕の役目は終わったな」
 立ち去ろうとするソロンの肩をヴェルトが掴んだ。
「おいおい、何処に行く気だ?」
「何処って…、僕はもう用済みなんだろ?城を出て気ままに生きるよ」
「馬鹿なこと言うな。お前には俺が死ぬまで働いてもらうからな。それにお前は俺の友人で、ここはお前の家だ。出て行くなんて許さんぞ。…お前、何泣いてるんだよ」
 ソロンは自分の頬に触れた。指が濡れている。
「そうか…」
「ソロン?」
「あの時、僕は悲しかったんだ…」
「何を言って…」
「でも何故か泣けなかった。悲しかったのにそれがわからなかった…」
「お前…」
 ヴェルトはソロンを抱き締めると、小さな子をあやすように頭を撫でた。
 この青年はずっと孤独だったのだろう。
 天才的な頭脳を持つが故に、世界と交われずにいたのだ。
「喉が詰まって苦しい…ヴェルト…これは何なんだ…?僕にはわからない…」
「それは、悲しいっていう感情だよ」
「悲しい…」
「そう。緋色の賢者様が涙と鼻水まみれとはな…日記に書いとくか」
「人権侵害だぞ、馬鹿国王」
「何だと?俺は国王だぞ?俺が一番偉いんだ」
 ソロンは泣きながら笑っていた。
 死ぬまでずっとここにいたい、
 そう思うようになっていた。
 

 ヴェルトが死んだ。
 ソロンが二つの呪文を開発してから三年、パルティア公国の周辺に不死者の群れが現れるようになった。
 ヴェルトは軍を率いて不死者を退治しに行ったきり帰って来なかった。捜索隊が捜しに行ったがヴェルトの遺体はなく、血塗れの鎧が転がっているだけだった、という報告をソロンは虚ろに聞いていた。
 首都で盛大な葬式が執り行われた。静かに、厳かに空の棺が運ばれていく。
 国民達は偉大なる王の死に涙を流した。
「僕を置いていくなんて…ひどいよ…ヴェルト…」
 部屋の窓からぼんやりとその光景を眺め、ソロンは呟いた。足元には小さな鞄が置かれている。ヴェルトのいない城は息苦しいだけだ。ソロンはそう思い、城を出ることにしたのだった。
「ばいばい…ヴェルト…」
 太陽がやけに眩しかった。


「僕に何の用だ?用がないなら帰ってくれ」
 ソロンは部屋の隅に立っている女性に言った。
 その女性はソロンにしか見えていない。
 何故なら彼女は、戦乙女であるシルメリア・ヴァルキュリアその人だからだ。
「…僕の魂を狩りに来たのか」
 靴音を立ててシルメリアが一歩ソロンに近づいた。翡翠色の目でソロンを見つめる。
「その通りよ。貴方のその知識は私達神々にとって脅威になる。貴方はいずれ賢者の石を見つけ、失伝魔法を手にしてしまうかもしれない」
 しばらく考えた後ソロンは口を開いた。
「いいよ。エインフェリアになるよ」
「…本気なの?殺してくれと言っているようなものよ。気は確か?」
「構わないさ。人間の世界にも飽きてきたし…それに…」
「何?」
 ヴァルハラに行けるのかもしれないしね、ソロンは口に出さずに呟いた。
「準備はできているの?」
「ちょっと待って……いいよ、逝こうか」
 ソロンは完成した本を閉じると、つばの切れた帽子をかぶった。
「変わっているのね、貴方って」
「よく言われるよ。僕は天才だからね、皆嫉妬してるのさ」
 シルメリアは目を閉じた。青い光が、二人を包み込んでいく。
 光が消えると、ソロンの姿は消えていた。
 机の上には一冊の本が置かれていた。
 表紙にはこう書かれていた。
 賢者ソロンの秘文書。