ベッドの上でシルメリアは目を覚ました。
 最初に視界に入ってきたのは、白い石造りの天井だった。目を閉じ、アリーシャに呼びかけるが返事がない。過酷な旅で疲れきっているのだろう。だるさの残る身体を起こし、周りを見回すと、椅子に座った小柄な青年が壁にもたれかかり目を閉じていた。耳を澄ますと、微かに寝息が聞こえてくる。
(確か…彼はエルド…)
 エルドを起こさないように、シルメリアはベッドから降り、部屋から出た。振り返り、眠っているエルドをちらりと見る。
(…いつも側にいて、アリーシャを気にかけているのね…)
 シルメリアはそんな二人の関係が少し羨ましかった。
 自分が神という存在でなく、一人の人間としての女性だったら。
 きっと……。


 アリーシャが目覚めるまでシルメリアは街を散歩することにした。楽しそうに遊ぶ子供の声、店先で商品を勧める人の声、様々な人の声が辺りを飛び交い、とても賑やかだ。
(何て楽しそうに笑っているの…)
 ふわりと花のいい香りがした。通りの端で、花売りの少女が花を売っていた。シルメリアは足を止め、しばらくその様子を眺めていた。その時、一つの足音が彼女から少し離れたところで止まった。
「アリーシャ王女?」
 シルメリアは振り向き、驚いた。そこには一人の青年が立っていた。
 金色の髪に琥珀色の瞳。焦げ茶色の鎧に身を包んだ長身の青年。澄んだ端正な顔立ち。シルメリアの胸が痛み、無意識の内に名前を呟いていた。この胸の痛みの訳は解らなかった。
「ローランド…」
「奇遇ですね。散歩ですか?」
「え…ええ…」
 彼女の不自然な態度に気付いたのか、ローランドの眉が顰められた。彼の琥珀色の目はしばらくシルメリアを捉えていた。しばらくすると、ローランドは納得した表情で息を吐いた。
「…シルメリア…様?」
 無言でシルメリアは頷いた。ローランドは困った顔で立ち尽くしている。
「とりあえず…座って話せる場所に行きませんか?」
「…そうね」
 ローランドが遠慮がちに言った。確かに、今二人がいる場所は人々の往来が多い所だ。このままここに居れば、邪魔になるだろう。ローランドが前を歩き、シルメリアは彼の後に続いた。
 広場に着くと、二人はベンチに腰を下ろした。噴水の水飛沫が陽光に照らされ、輝いている。ローランドは地面を見つめていた。何か話題を考えているのだろうか。
(困ったわ…こういう時はどうすればいいのかしら…)
「アリーシャ王女はどうしたんですか?」
 急にローランドが話しかけてきた。ローランドの声は昔と変わらず澄んでいた。その声はまるで教会で響くパイプオルガンの澄み切った音のような、そんな声だった。
「今は眠っているわ。何度呼びかけても起きないの…きっと、疲れているのね」
「そうですか…華奢な身体で頑張っていますからね。健気で…見ていると胸が痛みます」
「…私が覚醒しなければ、今頃この子は煌びやかなドレスを着て、舞踏会で踊っていたかもしれない。愛する人と出会い、子をもうけ、安らかに老いていったはずなのに…」
 冴えたアイス・ブルーの瞳を伏せ、シルメリアは沈みきった声で呟いた。彼女の肩に触れようとしたローランドは、伸ばしかけた手を止めた。
「どうしたの?」
「…貴女に触れて慰めたいと思っても、目の前にあるのはアリーシャ王女の身体なんですね。シルメリア様は手の届かない、遠すぎる場所にいる」
 苦笑するとローランドは行き場のなくした手を膝の上に置いた。その手がぎゅっと握りしめられた。ローランドは微笑み、真っ直ぐにシルメリアを見つめた。苦笑とも、微笑ともとれる、そんな微笑みだった。
「貴女が手の届かない所に居たとしても…私はシルメリア様を支え、アリーシャ王女を守ります」
 彼の琥珀の双眸は、高潔で、誇りに満ちていて、まさに雷鳴の騎士そのものだった。長い時を得ても、輝きを失わない誇りに心打たれた。シルメリアは手を伸ばし、ローランドの手を両手で包みこんだ。驚き、ローランドが眉を上げた。戸惑っているのが手に取るように解る。
「シルメリア様?」
「大丈夫。アリーシャがそう言ってるわ。……貴方を選んで、本当に良かった。ありがとう」
「光栄です」
 もっと素直になったらいいのに。深層意識の中のアリーシャが言っている。貴女に言われたくないわと言い返すと、アリーシャは苦笑し、静かになった。気を利かせてくれたのだろう。お人好しなんだから。
 触れ合った手は、とても温かった。