『アリーシャ』
「……」
『聞こえてるんでしょう?』
 シルメリアの声が頭の中に響く。アリーシャはその声を無視して歩き続けていた。早足で人の波をすり抜け、行くあても無くただひたすら歩き続けていた。
『…勝手になさい』
 シルメリアが溜息をついた。シルメリアの呆れた顔が脳裏に浮かぶ。その言葉を最後に、彼女の声は聞こえなくなった。
 左足に鈍い痛みを感じ、アリーシャは歩みを止めた。往来の邪魔にならないように路地裏に座り込む。
「靴擦れかしら…」
 靴の上からそっと触れてみると、鋭い痛みが走った。蹲るように身体を丸め、アリーシャは目を閉じた。人々の行きかう足音や、店先で商品を売る声が耳に聞こえてくる。ぼんやりとそれを聞いていると、一つの足音が彼女のすぐ近くで止まった。
「アリーシャ王女?」
 心臓が止まりそうになった。
 優しく心に響き渡る、張りのある低音の声。
 聞く度にその声は、アリーシャの心を震わせる。
 顔を上げると、そこには、アリーシャがずっと恋焦がれている青年の姿があった。
「ファーラントさん…」
 アリーシャは無意識に青年の名前を呟いていた。ファーラントと呼ばれた青年はアリーシャの側に屈みこむと、にっこりと微笑んだ。
「捜してたんだよ。君に訊きたい事があって……足、どうかしたのか?」
「何でもありません…少し痛むだけです」
 ファーラントは手を伸ばし、アリーシャの左足に触れた。真剣な表情になったファーラントの目が、アリーシャを見つめた。動悸が激しくなり、胸が苦しくなる。
「…酷く腫れてるじゃないか。手当てをするから、靴を脱いで」
 留め金を外し、アリーシャはブーツを脱いだ。
 左足は彼の言うとおり、酷く腫れていた。皮が剥け、血が滲んでいる。連日の強行軍が祟ったのだろう。
「…酷いな…これは…待ってて、すぐに治すから」
 ファーラントは白い手袋を外し、アリーシャの足の上に手を置いた。肌と肌が触れ合い、柔らかな体温が伝わってくる。彼は目を閉じ、呪文の詠唱を始めた。淡い緑色の光が傷口を包み込んでいく。あれほど酷かった傷は、嘘のように塞がっていた。
「これで大丈夫だよ」
「…ありがとうございます…」
「訊いてもいいかな?」
「はい」
「…君は…何で俺を避けるんだ?」
「…え?」
「答えてくれ」
「…何の事か解りません。私、帰ります」
 ファーラントは素早く立ち上がると、アリーシャの前に立ちはだかった。両手を腰に当て、アリーシャを見据える。
「君が答えるまで、俺はここを動かないからな」
「…私…」
 言えない。
 言える訳がない。
 言えばきっと、彼は私から離れて行ってしまうだろう。
「…そうです!私は…ファーラントさんを避けてます!!…ファーラントさんなんか嫌いです!!嫌いです!!」
 まくしたてるようにアリーシャは叫んだ。その場に座り込み、泣き出す。ファーラントは呆然とした表情で、無言で立ち尽くしていた。その顔は次第に、傷ついた表情に変わっていった。
「…何だよ…それ…訳…解らないよ……」
 両手をきつく握り締め、小さく呟くと、ファーラントはアリーシャに背を向け、雑踏の中に消えて行った。
 そこにはアリーシャだけが取り残された。


 好きと言いたかった。
 愛してると言いたかった。
 でも、彼はすでにこの世界には存在しないのだ。
 そう、エインフェリアなのだから。
 遠ざければ遠ざけるほど、ファーラントの存在は大きくなっていく。
 言えないコトバが一つあるだけで、こんなに苦しいなんて知らなかった。